謹んでご冥福をお祈りいたします。
あの日自分は当日から始まる会の合宿のために前日から移動を開始。
11日は3月で廃止が決まっていたくりはら田園鉄道に乗車。そこから大船渡線の快速に乗車して気仙沼で一泊しました。
そして運命の12日。気仙沼線の快速南三陸に乗車して仙台へ。
あの日以来もう二度と走ることのない、快速南三陸・・・ |
指定席(リクライニングシート)の車内から朝食に買っていたふかひれパンを食べながらリアス式海岸を見ていた記憶があります。それから4年後・・・気仙沼線はご存じの通り東日本大震災で広範囲で被災し、現在は柳津駅から気仙沼までの間はBRT化されています。これが最初で最後の軌道での気仙沼線被災区間の乗車にもなりました。
そして仙台からは新幹線に乗車して盛岡駅へ。
そこから雫石へ向かうことになってるのですが、こまち号の停車本数が少ないので普通列車で移動することに。その間、3連休パスの最終日でしたのでIGRのホームへ行き、やはり3月のダイヤ改正で消えることとなっていた花輪線のキハ52・58を撮影。
国鉄キハ52・58、花輪線からの引退1ヶ月前、最後の勇姿 |
そして撮影の後、田沢湖線の普通列車に乗車して雫石で会の先輩・後輩方と合流。この日の宿へと向かいました。
・・・そしてその夜、1通のメッセージが届きました。それは訃報を伝える物。そしてお通夜と告別式の日時も。お通夜の日は本来解散後に有志で津軽鉄道乗車、そしてあけぼの号のゴロンとシートで帰宅する手筈となっていました。ですが、会長ら数名にその事実を伝え、合宿解散後にそのまま新幹線で直帰することとなりました。
その後あけぼの号には鉄道むすめ巡り2nd移動初日で乗車しましたが、津軽鉄道は今も乗ることは叶わないままとなっています。
それから12年間、様々な出来事がありました。しかしあの日の出来事は一生忘れることはないでしょう。
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